グレー人間
ずいぶんほったらかしてたなあ
正しさこそが正しいのか。
という命題。
運動会の感想は「楽しかった」、辛かったことは「大変だったけどいい経験になった」、と言わなきゃいけないような圧力。
人間そんな簡単に割りきれることばっかりじゃないじゃない。
邪念があって、好きなことをやりたいようにやりたいしやりたくないことはやりたくないけど、目の前には道徳や倫理や社会があって、おんなじように邪念ドロドロの人間がうじゃうじゃいて、うまいこと折り合いをつけていかなきゃいけない。それは声が出せてある程度言葉を覚える頃、産まれて3年後には始まる戦いである。
幼稚園生の頃に声が出なくなった。
ストレスで出なくなったみたい、と俯いてた私に上から先生の声が降ってきたのは覚えている。
なにがきっかけでは覚えてないけど、もう人との関わりがめんどくさくなって、
苦手な友達と仲良さそうに話さなきゃいけないこと、みんなが鬼ごっこしてたら混ざらないと「輪の中に入れないかわいそうな子」として先生に話しかけられてしまうこと、どんなことがあっても「今日も楽しかったよ」と親に笑いかけなきゃいけないこと、本当はピアノじゃなくて絵が習いたいこと、そういうことを無邪気さでごまかしてたら、声を出すことが億劫になってしまった。
声が出せなくなると、不思議とみんな優しくなるし、抱き締められる回数は増えるし、自分は声を出す時のトーンや口調のあれこれを考えなくていい分ひとの表情がよく見れるようになる。
話せないことはとても楽なのだ。と学んでしまってから、ストレス過多になると声が出なくなる癖がついてしまった。ろう者には眉を顰められそうだけども。
自習室で人とすれ違っても何も言えない日があるのは、イヤホンで爆音で音楽聞いてて気付いてないか、声が出ない日なの。ごめんね。
そんな人間の割には、私は声フェチで、電話するのが好きだ。
特に、正しくない私の受け入れてくれる声が好きだ。まあ元彼のことなんだけど。
彼ができた人なおかげで今も遊びに行ったりする仲なんだけど、あの人は本当にすごい。
表向きへらへらしてるくせに、水面下でぐちゃぐちゃ考えて、考えすぎて思考が2周3周して、はしっこが見えない毛糸みたいになってしまう私は、考えすぎて抜き差しならなくなったら彼に電話をするんだけど、思考をほどくのが本当に上手い。なんで私よりも私の思考回路がわかるのかわからん。
曰く、私は正しくあろうと必死になってるらしい。
自分の邪念やわがままからスタートして、正しさにゴールしようとして失敗してるらしい。
「人間なんだからさ、間違っててもいいよ。その度合いがひどくなければ」
という、いつか言われた言葉は今も大事な私の柱だ。
黒から逃げても白にはなれず、黙っても透明人間にはなれないから、グレーがいいね。
だからこそ他人のグレーも愛せるのだ、きっと。