幸せが似合う人、ちょっぴり不幸せが幸せな人
以前、思考を放棄しないと幸せや楽しさは感じられない、とTwitterで書いた。
ライブで盛り上がってる時に「明日仕事かあ」と考えれば、せっかくの楽しい空間から自分を切り離してしまい状況を俯瞰してしまうことになる。すると驚くほど急に冷める。ファサッッッッと冷める。なにもかも無機質なつまらないものに感じる。私はこれをよくやらかす。お笑いライブでも演劇の公演でも。
駅で馬鹿騒ぎしてる人らを見かけるとうんざりするように、楽しいシーンというのは自分が当事者でない限り楽しくないものなのだ。
幸せも多分似ていて、たとえば好きな人と抱き合ってほこほこ幸せを感じてるときに「この状況端からみたらアホっぽいだろうなあ」と思えば冷める。スンッッッと冷める。私はこれもやらかした。
幸せや楽しさを感じるには考えちゃいけないのだ。
Don't think, feel!ってやつだ。
これが私にとってはめちゃくちゃ難しい。
考えることが好きだから。
ああでもないこうでもないと思いながら、本を読んだりネット見て知識を足しながら、いろんな人に話聞きながら考え込むのが好きだ。
もし今私がすべて満ち足りていて、なんの不自由もなかったら、端からみたら「幸せ」だろうけど、悩めない、考える材料もないことは私にとっては「不幸」だ。
逆に言えば、何か満ち足りてなかったりするのはそれ自体は「不幸」かもしれないけど、私にとってはあれやこれやと苦悩できるから「幸せ」なのだ。
でも完全な不幸になると絶望で思考が停止してしまう。だからちょっぴり不幸くらいがいい。
まあ簡潔に言えば、幸せの形は人それぞれってことだね。
私みたいな人はきっと他にもいる。
こういうタイプが幸せを追いかけたら悲惨だと思う。まっさらな幸せを追いかけるくせに、手に入れたら入れたで粗捜しをする。永遠に幸せになれない。
でも、たとえば結婚とか、いわゆる「幸せ」を勝ち取ることを社会から強制される場面は多い気がする。
そういうのに抗いながら「私は今幸せだよ!」って言ったりするんだけどなかなか信じてもらえないのはしんどい。
「セクシャルマイノリティ辛いでしょ」ってたまに言われるけど、私はまったく辛くない。自分がレズだったりノンセクだったりすることで人間を見つめる視点が増えた。そうやっていろいろ考えるのは結構楽しい。むしろ辛いでしょって言われるほうがしんどい。
いやまって今日寒すぎる。電車乗りながら書いてるけど手が限界。
ちゃんと書こうとしたけどうまくまとめられなかったのを下にはっつけて終わろう。
幸せになるにはどうやらもういっこ必要らしい。
「ぼくわからない。けれども、誰たれだって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)
間違いだらけと 判っていても 2人は進んでいく
つまりそれは 恐れずに 幸せになる 切符を 手にしている
(YUKI『歓びの種』)
決心だ。